第030回目

心を高める努力と反省を繰り返す

ほとんどの人は心の大切さに気づかず、心を立派にしようなどということに関心を持ちません。
しかし、まずは心を高めなければならない、心を美しくしなければならないと思わなければならないのです。

そうは言っても、我々は欲(煩悩)にまみれた人間ですから、なかなかそうはなれない。
なれないけれども、「ならなければならない」と思って反省する。
この反省があるから、努力をしようと心がける。
このことが人生にとっては大切なのです。

本当に美しい心を持った人は、「悟りをひらいた人」でもあるのでしょうが、凡人がいくら努力をしても悟れるわけがありません。
お釈迦様が悟りをひらかれた二千五百年前から今日に至るまで、そうして悟りをひらいた人というのはほとんど出ていないわけです。

だからこそ、せめて道を少しでも極めるために努力しようと思っている人間でありたいと思うのです。
そのように自分自身で心を高めよう、心を清めようと努力をしている人は、いわば修行をしているようなものだと思います。
またその人にとって、与えられた人生とは、心を美しくするための道場となるはずです。

私自身、偉そうなことを言っていますけれども、一生懸命にこうして話をすることで、自分自身の心を清めようとしているのです。
「あなたの心はいかほど清められていますか?」「どのくらい心が高まっていますか?」と問われれば、本当に答えるのも恥ずかしいくらいのものでしかないのかもしれません。

しかし、だからこそ、こういう話を皆さんにするのです。
そうすれば必ず、「そういうお前はどうなのか。」と私自身を責める自分というものが出てきます。
その葛藤の中で私自身を高めていく、この繰り返しこそが人生なのだと思うのです。

その中で、「企業とは、経営者と従業員の器以上に大きくはならない」と言われています。
であれば、私は自分の器を大きくしようと思います。
その「器」とは、もちろん肉体のことではありません。
心、人格、人柄のことです。

つまり、人間としての器を大きくしようということは、心を(きよ)めよう、心を立派にしようという意味であり、人間の心を育てるということです。

「人生はあなたの心のままです」とお釈迦様が説かれたように、経営者や従業員が人生という道場で修行を積み、勝ち取った「心」以上には、企業は大きくならないということなのです。

コメント

川邉さん

(2015/06/15 20:35)
体の大きさは自分の意思で変化させられないが、心の大きさは自分の意識次第で自在に変幻可能な代物である。
立派な人とは、体格の優れた人ではなく、心根(器)の優れた人のことをいうのだと思う。
そういう意味でも、我々は日々「器/心」を清く正しい方向へ向ける努力をしなければならないのだと感じた。

前田さん

(2018/06/29 17:54)
心を浄めたり、立派にすることは、難しく感じますが、素直な心でいれたら良いなと思いました。


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