素直な心をもつ / 足るを知る
次は、「素直な心をもつ」ということです。
先ほどから述べています「愛と誠と調和の心」「きれいな心で願望を描く」、そしてこの「素直な心をもつ」、さらには、次に出てくる「常に謙虚であらねばならない」、これらを並べてみると、優しい語感の言葉が並んでいることに気づきます。
特にこの「素直な心をもつ」という言葉は、大人しく「右向け右」と言われれば右を向くといった、従順な意味合いについついとられがちですが、決してそうではありません。
1997年頃私の妹がミャンマー(ブータン)に行ってきました。
ミャンマーの住民達はみな明るくて、憂い憂いしい顔付きをしていて、特に子供は今の日本の子供と違って真の笑顔をしていて、写真を見てたいへん感動をしました。
しかし、その貧しさたるや、想像を超えていた話も事実で、最新のカメラは持ち込み禁止などたくさんの禁止事があることを教えてもらいました。
これから「きれいな心」「素直な心」「足るを知る」「感謝の心」「謙虚な心」など、仏教の教えについて社会で役に立つお話をしていこうと思います。
しかし、たいへん貧しい生活をしながら、それに満足をしているミャンマーの人達を見て、あれで本当に幸せなのかと、疑問に思うのです。
ミャンマーは独裁に近い軍事政権国家です。
その体制下で、民衆は従順に従っています。
そういう無抵抗で従順な民衆になれという意味のことではないのです。
仏教の教えとして、お釈迦様は一番に「精進」をあげておられます。
修行をするにしても働くにしても、一生懸命に行う。
この精進が、はじめにあるわけです。
しかし、自らの欲望のみを追いかけてひたすら努力をしていても、その成功は長続きしないのです。
人間の欲望には限度がありませんから、ほどほどにという意味で「足るを知る」ことが大切だとお釈迦様は言っているわけです。
世の中をよくするためにもっと働きたいというような美しい心で描く願望であれば、限度がなくても構いませんが、個人的な欲望については、できる限り抑える努力をすべきなのです。
ですから私が言っている意味は、決して卑屈になって現状に甘んじるということではありません。
自らの欲望を抑えるために「足るを知る」ことを心がけるということなのです。
コメント
小泉社長
(2019/06/23 14:33)
第36回目《素直な心をもつ / 足るを知る》はいかがでしたか?
たとえば上司に何か注意されたとか、上司に「こうしたらどうだい?」と言われた時に、「最初っからそんなこと言ったってうまくいかないよー」とか「そんなこと分かってるよ。」とか思う時があります。
そのような時はやっぱり心を開いていないんです。
本当に心を開いていれば、そういう考え方もあるなってそういう風に考えられるような気がします。
そんなこと分かってるよって言う人に限って分かってないと思います。
正直私も「そんなこと分かってる。」と思う時もあります。
でもその時って素直じゃないんです。
心を開いていないんです。
「そんなこと分かってる。」って思った時は、分かってないと思った方がいいですね。
たとえば、「挨拶は大事だぞ。」と私が言った時に、「そんなこと分かってるよ。」なんて言う人は、実は本物の挨拶なんてできていないんです。
できていない人に限ってそんなことを言うんです。
本当に挨拶が大事だと思っている人だったら、「確かにそうだ。」「確かに自分もそう思う…」と思えるはずです。
ですから、もし自分が「そんなこと分かってる。」って思った時は、「自分は本当は分かってないんじゃないか。」と思って自分の行動をよく考えてみてほしいです。
素直というものは「心を開いて物を見」「心を開いて人の話を聴く」ということ。
「聞く」じゃなくて「聴く」です。
「聴く」という漢字には耳だけじゃなくて目と心が入っています。
目は横になっていますがその方が目の形に近いんです。
だから、しっかり目を見て心を開いて、耳だけじゃなく目と心で聴いて欲しいと思います。