ものごとの本質を究める
私たちは一つのことを究めることによって初めて真理やものごとの本質を体得することができます。
究めるということは一つのことに精魂込めて打ち込み、その核心となる何かをつかむことです。
一つのことを究めた体験は、そのほかのあらゆることに通じます。
一見してどんなにつまらないと思うようなことであっても、与えられた仕事を天職と思い、それに全身全霊を傾けることです。
それに打ち込んで努力を続ければ、必ず真理が見えてきます。
いったん物事の真理が分かるようになると何に対しても、またどのような境遇におかれようと、自分の力を自由自在に発揮できるようになるのです。
先に「完全主義を貫く」ということと「真面目に一生懸命仕事に打ち込む」ということ、そして「地味な努力を積み重ねる」ことについてお話をしました。
実は、この三つのことを四六時中やっていれば、物事の本質が究められるようになるのです。
完全主義を貫き、仕事に打ち込みながら、三年が経ち五年が経ち、そして十年が経っていく。
そうするうちにだんだん物事の本質が究められるようになっていきます。
これは禅宗のお坊さんが坐禅をして悟りをひらくのと同じことだと思います。
禅宗では日々坐禅を組むだけではなく、自分達で炊事をし、掃除をし、風呂を沸かし、また農作業をして自分たちの食べるものを作っています。
そこでは、あらゆる仕事が坐禅と同じく修行とされているのです。
つまり、「一つの仕事に打ち込むこと」が修行であるわけです。
たとえば食事を作るという場合、雑念妄念を払拭してただ食事を作ることに一生懸命になる。
そのことが、やがて悟りへの道をひらいていくのです。
年がら年中朝から晩まで達磨さんみたいに坐禅を組んでいれば、悟りがひらけるというものではないわけです。
私も、有限会社一番館という会社経営に一生懸命に取り組むうちに、何か核心のようなものをつかんだ気がします。
以前、私はある宮大工の方が対談をされているのをテレビで見て、感心させられたことがありました。
もう齢は六十か七十歳くらいでしょうか、小学校を出てからずっと宮大工として努めてこられたそうで、その方が大学の哲学の先生と対談をしておられたのです。
それが大学の先生もタジタジになるくらい、素晴らしい話をされていました。
「一芸に秀でる」という言葉があります。
「大工の仕事を究める」ということは、ただ単にカンナをかけて素晴らしい建物を造れるようになるだけではなく、自らの人間性をも素晴らしいものに作り上げることに通じるのです。
つまり、一芸に秀でた人、物事の本質を究めた人は、万般あらゆるものに通じるようになる、そう私は感じたわけです。
私自身、そういう境地にまで行かなければと思いました。
物事の本質を究めた人は、漂う風格もどこか違っています。
高度な教育を学校で受けていなくても、素晴らしい人格を作り上げておられるのです。
そこまでいかなくても、身近に素晴らしい人格を作られている方がいらっしゃると思います。
たとえば私の場合ですと、帰り道の間にスーパーがあります。そこに丁寧で心のこもったレジのパートのおばちゃんがいます。
おばちゃんなのですが素晴らしい人格を感じて、私は安いビス(2012年6月末閉店)ではなくてライフに行くようになりました。
その他にも田所司法書士事務所さんのビルメンテナンスにあたられていた職人も「すみません。ご迷惑をおかけします。」という一言でしたが、私の忙しさを見抜いて心底「すみません。ご迷惑をおかけします。」という声をかけられたのです。
後日、田所事務所さんとは別のビルで営業をされている不動産屋で「あのおじさんは人柄で仕事を取っているな。」という会話がありました。
感じ方は違いますが私には一瞬でしたが一生懸命仕事をして素晴らしい人格を身につけられた方だと感じました。
だいたいそういう方たちは仕事だけではなく、人生もうまくいっているように感じます。
コメント
川邉さん
(2015/07/17 17:58)
この項目を読んでの感想は特に思い浮かばないが、私は普段買い物をする時、同じチェーン店でも、多少距離があろうと感じの良い店員さんの居る方の店舗に自然と向かっていることがある。
「感じの良い人」であるための努力は、接客業に限らずあらゆる業種にとって必要なものであると感じる。
峯村さん
(2016/04/02 22:37)
少し話がずれるかもしれませんが、スマホを見ながら歩いたり自転車に乗ったり食事をしたりしている人をよく見かけますが(自分も含めて)、そういう人はどうも今この現実を生きていないように見えてしまうことがあります。
今、目の前の事に集中して真剣に取り組む事で、地に足を付けルことができ、生きている実感を感じる事ができるのではないかと思いました。